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堀江貴文イノベーション大学校(通称HIU)公式の書評ブログです。様々なHIUメンバーの書評を毎日更新中。

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物語の終わりとは、友人の死。『放浪息子』 著者 志村貴子(エンターブレイン 、2003/07)

志村貴子は変な漫画を描く。抑揚がなく、起承転結らしい物語もない。しかし、人がただ生きている姿、その細かな機微を豊かに描ける人だ。

放浪息子』の登場人物たちは10年の連載の中でどんどん年齢を重ね、考え方も好きっだった人も変わっていく。私たち読者は彼らを見守り、ああこの子大きくなったなあ、と思う。連載漫画とは不思議だ。自分の過ごした時間を共有している。雑誌派の人は毎月、単行本派は一年に数度、顔を合わせる。そしてまた早く会いたいな、と思う。

男の娘という言葉が出てくる前に、女装少年を描いた漫画がある。やぶうち優少女少年』(1998)、吉住渉ミントな僕ら』(1998)、そして志村貴子放浪息子』(2003)だ。『放浪息子』の主人公、二鳥修一は女装が好きな少年。

ただこの漫画では男の娘はあくまで要素だ。描かれているテーマは月並みな言葉で言うと思春期の揺らぎであり、成長への抗いだ。登場人物の10代特有の恥ずかしいという感情は誰もが経験していることであり、読者の頰を焦がすことだろう。

1巻では小学生だった修一も最終巻では高校生になっている。あんなにいやがっていたスネ毛も生え、声も低くなった。
だけど女装を理解してくれる彼女はいる。終盤、高校生になった修一は、自分のことを描いた物語を書こうと決める。

特に印象に残ったシーンがある。修一が自身を書いた文章を恋人に見せたときだ。読み終えると彼女が「なんだかシュウが死んじゃうみたい」「死なないで」と涙する。

私はこの場面に出くわすまで物語の終焉とは、未来の提示だと思っていた。物語は、終わる。長年続いた連載も終わる。しかし彼らの人生は続き、ただ幕が下りるだけだと。

だがそれは違う。物語の果てとは、長く愛した登場人物たちの死だ。閉幕後の命など本当はどこにもないし、彼らは消えるのみだ。絵と文字の間に、読者は登場人物の鼓動に身を重ね、ひとりの人間として想う。

物語を読み終えることは、ひとつの死を見送ることだ。